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杏林大学医学部 第三内科学教室 消化器内科
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先輩からのメッセージ

OBの先輩からのメッセージ Vol.001

やまぐち内科眼科クリニック 山口康晴先生

現在多方面で活躍される医局OBの先生方をご紹介します。
記念すべき第1回はやまぐち内科眼科クリニック 山口康晴先生です。

Q1. ご出身はどちらですか?

東京都田無市(現在の西東京市)で生まれ育ちました。杏林大学医学部まで距離にして10kmほどです。当時は掃除・洗濯がぜったいにイヤだったので、下宿せず通学でき、かつ浪人せずにすむ大学を選択して受験し、杏林大学に拾ってもらいました。未だに母校 杏林大学への感謝の念は絶えません・・・(本音!!)。浪人していたら誘惑に弱い僕に今の人生はなかったでしょうから・・・。

Q2. 子供のころの将来の夢は何でしたか?

子供時代はなんの将来の夢も目標も具体的に持たない無気力でつまらない子供だったように思います(汗)。仲間と無意味にはしゃいで過ごしていました。中学・高校と剣道部でまじめに活動していましたが、それも身を挺して全力で稽古に取り組むような情熱があったのかといえば正直疑問です・・・。父が地元で開業医をしておりましたが、自分は医師には不向きだと漠然と思っていましたし、実際、高校2年生まで文系科目を選択していました。しかし、いよいよ高校3年生になり、自分の将来をあらためて考えたとき、入学した瞬間になるべき職業が決まる医学部の潔さは、ものぐさな自分にはとてつもなく魅力的にうつりました。急遽理系に変更し、医学部受験を目指しました。こんな不敬な選択理由でしたが、その先にすべての情熱を傾け、身を挺して努力する喜びを実感できる臨床医学という世界が待っていたとは、その時は思いもしませんでした。

Q3. 大学時代はどのような学生生活を送られていましたか? 部活動についても教えてください。

大学は自然に剣道部に入部しました。大学の剣道部はこれまでの中学高校の部活とは違い本当に家庭的でした。原チャリがガス欠で立ち往生しても,電話をすれば先輩がただちにレスキューしてくれましたし,食うに困っても誰かの下宿に転がり込めば数日は生活ができました。居候のブンザイが掛かってきた電話になんのためらいもなく出て,「ちゃんと大学に行きましたよ・・・」と伝え,心配して掛けてきた先輩のお母様を安心させるようなこともしばしばでした・・・(^_^;)。
剣道部の活動は医師になってからも役に立ちました。学生当時対戦相手だった他大学の選手とのちに学会で遭遇し、同じ分野で仕事をしていることがわかり意気投合。一緒に勉強会をはじめたりしました。東京医大 糸井隆夫選手(現同大消化器内科准教授)、東邦大学 浮田雄生選手(元同大講師、現在相模原市で開業)などのみんなとは今でも情報交換をしています。
剣道部時代の仲間達は今でも本当に良い関係が築けていますし、自分の精神的支柱になっています。

杏林大学医学部剣道部時代。主将を務める(筆者 前列左から4番目)。飲み会の合間に申し訳程度に練習するといった具合であり,試合成績はめっぽう悪かった・・・。
学んだ事は"仲間を大切にする" ということ。

学生時代はよくバイクでフラッと出かけていた。 たくさんの仲間とのツーリングもいいが,基本的には一人が好き。理由はみんなについていけない程遅かったから・・・(^_^;)。

医局時代のバイク仲間達と。現内分泌医局長の田中利明先生(前列)や高木徹也法医学教室准教授(後列左から3番目),小林治感染症学教授(後列右端)のお姿も。みんな速くていつも置いてきぼり・・・。

Q4. 卒業後、消化器内科を専門に選ばれたのはなぜですか?また、内視鏡治療領域を選択された理由を教えてください。

浅草寺病院勤務時代。 地域の粋なはからいで三社祭でお神輿を担がせてもらった。
(中央 杏林大1期生 宇都宮潔先生,左 同期の佐藤悦久先生,右 筆者)

消化器科に行こうと決めましたが、外科か内科かは最後まで迷いました。当時すでに内科領域も内視鏡治療などで外科を凌駕し始めていましたし、守備範囲は内科の方が広いのではないかと考え、最終的に消化器内科を選択いたしました。入局後は消化管から肝臓まですべての疾患を学ぶ機会をいただきましたが、その中で研究領域として内視鏡治療学を選択しました。診断だけでなく、治療を完遂する世界に生きる先輩方をみて、彼らの生き様に凄まじいまでの情熱と誇りを感じたためです。その後は消化管出血の内視鏡止血術からはじまり、胆石除去、癌切除といった多臓器にわたり内視鏡で治療できるこの分野にすっかり魅了されました。自分は研修医入局から今日まで、人の生き死に関わること以外、この世界で辛いと思ったことは一度もありませんが、それこそ寝食を忘れて手技や知識の習得に没頭した時代でした。青春そのものだったのかもしれません(笑)。

Q5. 学術活動について教えてください。

症例報告、臨床研究にかかわらずもともと自分の仕事を論文にまとめ活字に残すことが好きでした。当時 帝京大学から赴任された外科の杉山政則先生(現 外科診療科長/教授)と二人だけで寂しく胆膵系内視鏡治療をしていたときに(本当にスタッフが足りなかった!)、術中になにげなく杉山先生がお話された、「英文にしたら?」のひとことで自分の世界が大きく広がることになりました。「英作文でいいから持ってきて」のお言葉に甘えお届けした、つたない"英作文"が、editorとのやりとりを経て、その後ヨーロッパの雑誌に掲載されました。「自分も世界に発信できるんだ・・・」と、なんとも浮足立った気持ちを今でも覚えています。当時ハーバード大学での留学から戻られた当科 高橋信一先生にもそれはそれは喜んで頂き、もっと喜んでもらおうと(笑)、その後立て続けに10編以上のfirst nameの英語論文を執筆しました。ある日acceptされたjournalを手に取ると、表紙に見覚えのある内視鏡写真が掲載されておりました。自分達の論文の写真がアメリカ内視鏡学会のofficial journalの表紙を飾った瞬間でした。図書館で思わず呆然とした、あの時の震えるような感激は今でも忘れられません。これが大学で仕事をする人間の醍醐味だと実感しました。
開業した今でも学術活動はつづけています。今年は西東京市医師会で行った検診の成果をAmerican College of Gastroenterologyで発表してきますし、これを英語論文化したものがDigestion誌にacceptされています。開業医がなんとも無駄な努力を・・・と近隣の先生方に言われますが、培ったものを全力で発揮することは、医局時代にお世話になった先生方への恩返しだと思っています。実際充実していますよ!

American College of Gastroenterology 2000, NYにて。これが初めての海外発表だった。
この翌年に我々が観光したワールドトレードセンターがテロで崩落。衝撃を受けた・・・。

初めてのoral presentation (UEGW 2000, Burussels)。 巨大なツインモニター,100人以上の聴衆前での発表にこれまでに経験したことのない緊張が・・・。「next lecture・・・」と紹介され,oral presentationは lectureの位置づけなんだと知り,緊張が倍増したことを覚えている。

UEGW 2001,Amsterdamにて。 外科 阿部展次先生と。 "from Kyorin to All of the World" を合言葉に英語論文量産を阿部先生とともに誓ったのはこの頃・・・。ちなみにオランダの学会に阿部先生を誘った理由は・・・内緒。

土岐真朗君(現 副医局長),中村健二君(聖路加病院消化器内科)との3人旅。ホテルマンが「最上階の角部屋を用意したよ!」というので,「日本人も見直されたな?」と話していたら,その日エレベーターが壊れていた・・・(笑)。こんな旅も良い思い出!(DDW2008 San Diego)

日曜日ごとにみんなで集まって猿の実験をしていた頃。休日を仕事や実験でつぶすことにためらいや苦痛を感じるどころか,イベントのごとく楽しんでいた高橋教授とゆかいな仲間達・・・(笑)

我々の論文が表紙を飾った GIE vol 57 2003 。多くの友人達からお祝いメールをいただいた。それまでは第一線で働く他大学の高名な仲間たちとの会にお情けで潜り込んでいたが ,本当にその一員になれた気がした瞬間だった。

Q6. 先生は医局内でも留学をされた経験をお持ちですが、そのきっかけや留学を選択した理由を教えてください。

かねてより医者人生50年のうち、2年位家族とともに海外で暮らし、多くの人間を惹きつけてやまないBasic scienceの世界を覗いてみたいと考えていました。留学させていただいたのは38歳の時でした。留学するにはだいぶ遅い年齢ですね。ただ、人生も半ばを過ぎ、気が付けば常に何かに挑戦していなければ加速度的に老け込んでゆく歳となっていましたので、「今しかない!」と申し出て、医局より許可をいただきました。
米国 シカゴにある、University of Illinois at Chicago (イリノイ大学シカゴ校;通称UIC)、 College of Medicine、Cancer Center にて、postdoctoral fellow(いわゆるポスドク)として約2年間勤務しました(僅かばかりのお給料もいただけました・・・感謝!)。僕の研究テーマは、「肝臓における腫瘍抑制蛋白の細胞内輸送の解明」でした。実験については、supportiveな指導者のおかげで、手技的には比較的すぐに慣れることができましたが、広大なCell Biologyの世界が、始めたばかりの人間をやさしく受け入れてくれるはずもなくかなり四苦八苦いたしました。しかしBasic scienceの奥深さを知る貴重な機会に恵まれ、新たなことに挑戦する喜びを日々実感できました。

2005年から2007年まで米国シカゴにあるイリノイ大学シカゴ校(UIC)に留学。 UIC Medical Centerは,シカゴダウンタウンから数分に位置する。公立の大学病院として貧層から富裕層まで多くの患者を受け入れている。ここの救急車搬入口は,シカゴを舞台としたドラマ 緊急救命室「ER」の撮影にも使用された。

向かって左の男性が,Chishti教授。中央がラボのマネージャー,Kelly。後ろに立つ男性が,小生の直接の指導者 Toshihiko Hanada氏である。右端 筆者。

Q7. 留学中の体験談をお教えください。

家族と過ごす時間が多いことも留学者の特権です。週末はスポーツ観戦、美術館や博物館を巡りました。当初は4歳の長女と生後わずか2ヶ月の次女を連れての極寒のシカゴ生活はさぞかし辛かろうと心配しましたが、妻はもちろん長女も意に介することもなく恐ろしく順応していました。これまで共働きだった妻(杏林大92年卒 眼科医)にとって、この2年間は、念願(?)の専業主婦でした。幸い、職人の頑固さと、商人の如才なさが同居するような妻でしたので,目を疑うようなポスドクの給与を前に、家計簿を付け始め、巨大なバンに2人の娘を乗せ、数セントでも安い店を目指し連日走り回っていました。大学では1セントも使わせないつもりなのか、僕には毎日弁当と水筒を持参させ、靴下に穴が開き、新しいものをねだった翌日には、その穴がしっかり裁縫で閉じられていたのには、正直脱帽しました。家族の後押しをなくして、僕の留学はなかったと思い、感謝しています。

週末にはしばしばラボの友人達を我々のapartmentに招き、日本食を振る舞った。
ちなみに、効果の程は不明だが、似合わぬ髭を伸ばし始めたのは防犯のため。在米後半はすっかりメキシカンに間違われていた。

在米中は米国各地を訪問した。
夏休みに世界初の国立公園であるYellow Stone National Parkへ。ここは世界遺産に登録されている。
シカゴのオヘア空港は世界最大の空港であり、アメリカ国内のほとんどの都市に直行便がある。
子連れの旅行にも便利であった。

Q8. 先生が入局された当時の医局と比べ、現在の医局は先生からご覧になっていかがでしょうか?

それが恐ろしいほど入局当時と変わってないんですよ、とくに雰囲気が・・・(^_^;)。それがこの医局のいいところであり、ある意味困ったところでもあるのですが・・・。なんとも"のんびり家族"的なんですよね。歴代教授をはじめ、高橋信一教授や森秀明教授のご尽力なのでしょう。これからは久松理一教授に引っ張ってもらい、院内はもちろん、対外的にも"強い医局"に成長させてもらいたいとOBとして切に願っております。

Q9. これからの入局員や若手の先生にメッセージをお願いします。

大学にいる以上、専門領域をとことん突き詰めてもらいたいと思います。最近は総合医だとか、generalistだとかいって「なんでも屋」を最初から目指す方もおいでのようですね。それも大切ですが、僕は専門なくしてはgeneralistにはなり得ないと思っています。なにせ死ぬほど勉強した専門領域でもびっくりするような症例に出会うわけですよ。専門をどんどん掘り下げ、突き詰めていくと本当に幅広い知識が身につきます。自分の専門領域を本幹としてしっかり身につけ、徐々に枝葉を伸ばし、真のgeneralistたる臨床医を目指してもらいたいと思います。ですから、医局にいる限り、専門領域を明確にし、仲間と切磋琢磨しながら研鑽を重ね、その仕事を常に客観的に評価してもらう努力をしてもらいたいと願っています。一人ひとりが大学人として自覚することで、おのずと力のある医局になっていくと信じています。
ますますの医局の飛躍を、大いに期待しています!

著者近影

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